仏教書で何がわかるか?
仏教書で何が得られるか?
ある宗教者が哲学的で高尚な事をいうので訪ねていったと言う人がいたので「答えられなかったでしょう」と言ったら当たっていました。
よほどの覚悟を決めて取り組んでみても結局何が書いてあるのかさっぱりわからずといったものが仏教書には数多い。
中にはこれが日本語なのかと言う場合もあり、
私たちには何も見えてはないのである。
それは己が見落としても見えぬものかもしれない、そこには何の保証も
ありはしない、例え話も役に立たない。
世間の多くの坊さんが、効能書きの研究に没頭して、そこに心の自由を
求めてみようとしているが、とんでもない間違い。
もし仏を求めようとすれば、その人は仏を失い、もし道を求めようとすれば、その人は道を失う。
もし師を求めようとすれば、その人は師を失うであろう。
と、千年以上前に臨済録は喝破している。
仏教書に何かを求めるのも、アホなら、求めに応ずるのもまたアホの仕業と
言わねばならない。
「人間、この未知なるもの①」より